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「今でも本当につらい。思い出すのもおぞましい」それでも空襲体験を語り継ぐ…女性の思い【岡山・岡山市】

2023.06.30

「今でも本当につらい。思い出すのもおぞましい」それでも空襲体験を語り継ぐ…女性の思い【岡山・岡山市】

岡山空襲の体験を若い世代に語り継ぐ女性がいます。2度と思い出したくなかったつらい記憶と向き合いながら活動を続けています。

(川野辺郁さん)
「戦争のためにいかに 一般市民の何の罪もない人がこれだけの苦労をしてきたかを 伝えることができてよかったなと、今になって思う」
空襲1
6月22日、岡山市の中学校で講演を行うのは、川野辺郁さん、83歳。岡山空襲を体験した1人です。

(講演する川野辺さん)
「窓ごしに見えた景色が 空から何から真っ赤で、あれが空襲かと」
空襲2
川野辺さんは2010年に自身の体験を綴った本を執筆。3年前からは市内の小中学校で毎年講演会を開くなど戦争の悲惨さを積極的に語り継いでいます。

(川野辺郁さん)
「講演も最初は嫌で嫌で、今でも本当につらい。思い出すのもおぞましい怖い」

1945年6月29日午前2時43分、アメリカ軍のB29が岡山市中心部を襲いました。約9万5000発の焼夷弾が街に降り注ぎ、市街地の60%以上が焼失しました。
空襲3
川野辺さんは当時5歳。岡山市中心部を流れる西川沿いに家族5人で住んでいました。

(川野辺郁さん)
「明け方『起きなさい空襲よ』と、母に起こされて窓を開けて見ると、ずっと真っ赤だった」

家にあった防空壕では危険と判断し、両親とともに焼夷弾の降りしきる市街地を逃げ惑います。

(川野辺郁さん)
「私も焼け死んでしまうと思って、母のモンペを握る手を離して逃げた」

その時5歳の女の子がたった1人で見た光景は、あまりにも残酷なものでした。

(川野辺郁さん)
「直前にいた人が焼夷弾の直撃を受けて亡くなった。誰が言ったのか分からない『ギャー』という声とともに吹っ飛んでしまった」
空襲4B
その後、西川にかかる田町橋で奇跡的に家族と再会し、川に飛び込んで九死に一生を得ました。

当時の田町橋の写真が残されていました。欄干だけが唯一形を残した状態で、辺り一面に散らばる木材や瓦礫が当時の悲惨さを物語っています。
空襲4
(田町橋を歩く川野辺郁さん)
「(この橋ですね?)(当時は)欄干のすぐ下が川。(今立ってみると、かなり川幅があるように感じますが?)狭く感じていました。すごく人がたくさんいたので。助かったんだなという思いしか頭に浮かんでこない」
空襲5
川野辺さんは、2度と思い出したくないと、長年空襲の記憶に蓋をしていました。しかし20年ほど前、知人に空襲体験を話したことをきっかけに、自身の体験を本に残して後世に伝えていくことを決意します。
 
(川野辺郁さん)
「(当時5歳なのに鮮明に覚えていますね?)あれは忘れられない、いまだに焼きついている、だから今ウクライナの映像をみると…」

活動を続けながらも、なおも苦しめる戦争の記憶。ロシアのウクライナ侵攻のニュースでテレビから流れる現地の映像を未だに直視できないと話します。

(川野辺郁さん)
「久々にウクライナのニュースを見た。その晩は空襲の時の夢を見た。自分の“母ちゃん”という声で目が覚めて、枕は(汗で)びっしょりだった。一般市民が大変な思いをするのがつらい。私が体験済みだから」
空襲7
自身の体験を未来の平和のために…そう決意した川野辺さんの言葉は子供たちの心に強く刻まれます。

(講演する川野辺さん)
「何の罪も無い人が戦争に巻き込まれてひどい目にあったから、少し考え方を変えるとか 一歩譲る考え方を持てたら、そういうこと(戦争)には ならなかったのでは」

(講演を聞いた生徒は…)
「戦争は遠くの話で自分には関係のない話だと思っていたが、実際に体験された方の話を聞いて 絶対に戦争は起こらないようにしなければいけない」
「自分たちの下の学年に 戦争の怖さを伝えていけたら」
空襲8
(川野辺郁さん)
「私が経験したことはこれからの子供たちにもしてほしくないしさせたくないから、また来年に向けて体を鍛えながら頑張ろうと思っています」

川野辺さんの本は現在販売されていませんが、岡山県立図書館などで読むことができます。