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2023.07.06

「西日本豪雨を風化させてはいけない」被災と復興の象徴 まび記念病院の5年間【岡山・倉敷市】

西日本豪雨で大規模な浸水被害に遭い、被災と復興の象徴的な場所となったのが、倉敷市真備町の中核病院、まび記念病院です。経営者らはどんな思いでこの5年間を過ごしたのでしょうか。
まび記念病院01
再建が進んだ町の一角で、地域医療を支える、倉敷市真備町川辺のまび記念病院。浸水被害を受けた西日本豪雨から5年…。病院内は被災前と変わらない光景が広がります。
まび記念病院02
真備町下二万の山口文子さん(75)は、病院ができた2010年頃から通院していて、5年前は自宅が水に浸かりました。病院の経営者の村上和春理事長(71)は、被災した住民らの診察も行ってきました。

(まび記念病院 村上和春理事長)
「5年前の水害から調子悪いのがずっと続いたもんなぁ」
(山口文子さん)
「うちの土手の前が小田川じゃから」
(まび記念病院 村上和春理事長)
「あれは2階まで来たんかな」
(山口文子さん)
「2階の屋根がちょっと見えただけ。何にも無い、丸裸」
(まび記念病院 村上和春理事長)
「忘れることはできないし、でも、やっぱり前を向かないとしょうがないからな」
まび記念病院03

病院では、見える形で水害の記憶を刻んでいます。
まび記念病院04
(まび記念病院 村上和春理事長)
「柱のところに浸水線というのを入れた。ただ線だけ入れて何も文字も入れなかったんですけど、当時の状況を思い出すということ。西日本豪雨を我々自身も風化させてはいけない。そういった意味でこの線を引きました。病院は終わったと思いましたから、どういう形で復興させようかと思いました」

(5年前のリポート)
「病院ですかね。ああ今ちょうど、病院からボートに降ろされる人がいます。今、次々とはしごを伝って患者とみられる方が救助されていきます」
まび記念病院05
病院には一時、職員や入院患者など335人が取り残され、全員が無事救助されましたが、自衛隊らによる大がかりな救出作業は、被災の象徴的なシーンとして報じられました。

(まび記念病院 渡邉広美看護副部長(当時))
「ここへ2つ椅子を並べるんです。向こう側にも2つ並べるんですよ。まず職員がこうまたがって向こう側に降りました。こっちへ。そしてボートが着くので、はしごをかけて順番に並んでいただいた患者さんをどんどん」

院内は、1階の診療室や多くの医療機器が水に浸かり、病院の機能を失いました。
まび記念病院06
(まび記念病院 入澤晃己事務部長(当時))
「このラインですね、きのうのお昼頃はここまで水が来ました。椅子類が回転をして、勢いよくこっちから水が入ったからだと思うんですけど、ぐるぐる回転しておりました」

(まび記念病院 村上和春理事長)
「病院が復興しないと町は復興しないと思うよね。特に地方においては」

プレハブでの外来診療から入院患者の受け入れ再開。できることから着手し、被災から約7か月後。
まび記念病院07
(まび記念病院 村松友義院長)
「約7カ月間、よくぞここまで耐え、頑張ってくれました」

2019年2月にすべての病院業務を再開し、被災の象徴から復興の象徴へとなるべく、力を尽くしてきました。
まび記念病院08
さらに村上理事長は、自ら診察する傍ら、県内外の病院経営者に対し被災の経験を伝える活動を行ったり、町のニーズに応じて被災前は行っていなかった訪問診療を行うなど、被災の教訓や患者への思いをより強く持って仕事を続けています。

◆今、伝えたいことは◆
まび記念病院09
(まび記念病院 村上和春理事長)
「活気は戻ってきていると思います。もちろん完全に100%戻っているわけではないですけども、戻ってこられた方々のためにも、医療機関がしっかりしたものがないと本当に安心して住むことはできない、そういった責任を大きく感じております。これまでがこれからを決めるのではなく、これからがこれまでを決める。水害もあった、コロナ感染もあった、そういうものがあったけれども、これからどういう風な生き方、どういうものを作っていくか、どういう医療をやっていくかによって、それまで多くの経験であるとか、大きな意味を持ってくると思うので、より前を向きたいと思います」