2024.09.19
戦時中にハンセン病療養所で行われた臨床試験の実態とは「虹波」を被験した93歳入所者の記憶【香川】
戦時中、旧陸軍が開発した薬「虹波」の臨床試験が高松市沖にあるハンセン病療養所・大島青松園で行われていました。激しい副作用があっても軍や医師の言いなりにするしかなかった被験者。93歳の入所者は、何を体験し、何を見てきたのでしょうか。
(大島青松園入所者 松本常二さん)
「モルモット代わりにされたと私は思う。恐ろしかったから言いなり、全国的にハンセン病(患者)を試験台に使ったと思う」 太平洋戦争真っただ中、松本常二さん(93)は、10歳の時、古里・愛媛を離れ大島青松園に入所しました。 松本さんは13歳の時「虹波」の臨床試験の被験者になりました。虹波は戦時中、旧陸軍が人体機能の増進を目的に開発を進めていた薬です。 熊本の療養所に残る「虹波」の臨床試験の記録映像です。握力が弱っている入所者、虹波を投与した後には、文字を書いたり、バケツの水を持ち上げたり、懸垂までできるようになっています。 (菊池恵楓園歴史資料館 原田寿真学芸員)
「被験者が虹波によって急速に回復する様子が映されていたが、映像は人為的に作られたもの、フェイクであると指摘された」 虹波の検証を進める菊池恵楓園歴史資料館の学芸員・原田寿真さんは、入所者たちが園長を恐れて、成果を大きく偽った疑いがあるとしています。熊本の療養所には、園長が作成した実験結果の報告書も残されています。軍の機密事項だったため虹波の文字は〇で隠されています。 虹波の投与は、注射の他に膀胱や脊髄腔内などあらゆる方法で少なくとも入所者472人に行われ、実験中9人が死亡したとの記録が残されていました。 (菊池恵楓園歴史資料館 原田寿真学芸員)
「副作用が明確に出ているが、この実験を中止することなく、いっそのこと、原因を徹底的に究明することで、研究を進めたいという医師の決意が見られる、これについては入所者、被験者の立場がまったく考慮されていない、これが戦時中の臨床試験。中心となる課題」
その虹波の実験が、高松市沖の大島青松園の入所者180人に対しても行われていたことが、2024年7月、OHKの取材で分かったのです。 昭和22年(1947年)の皮膚科の専門誌にその記録が残されていました。青松園で存命の被験者は松本さんの他に2人だけ。園では、注射と錠剤の服用によって臨床試験が進められたといいます。 (大島青松園入所者 松本常二さん)
「高熱が出て出血もした。西も東も分からない状態で、10日ほどベッドで意識不明で寝ていた。眉毛が抜けたり・・目が悪くなったのも虹波の影響があったと思う」
「今思うと、つくづくよくあの時は耐えられたなと思う」 当時子供だった松本さん、ハンセン病の症状は落ち着いていましたが、虹波の投与のあと症状は悪化したといいます。被験者の中には激しい副作用を嫌がり、錠剤を舌の裏に隠し、外で吐き出した人もいたそうです。 (大島青松園入所者 松本常二さん)
「私たちに、虹波の反応が出ると「反応がないような薬は効かない、反応があるから効くのだ」と」
「吐き出して玄関に捨てられていた。それを見て、(看護師などが)舌を上げてみなさい、舌に隠さないように、飲み込むまで飲まされて、そういう強制的な恐ろしい時代だった」
(ハンセン病に詳しい歴史学者 藤野豊さん)
「ハンセン病療養所を利用して実験されたという、言ってみれば戦争犯罪でもあるという視点からも見ていかなければならない。満州の731部隊などの発想と結びつく考え方があったのではないか。もっともっと大きな問題として捉えていかなければいけないと考えている」 熊本での虹波の検証作業は今も続けられています。 園に残る資料からは、入所者の遺体から骨格標本が作られていたこと。 亡くなった入所者のうち389人が死後に解剖され、その多くは十分な同意が得られていなかったことも明らかになっています。 松本さんが80年以上過ごした大島青松園には、検証に必要な古いカルテなどの資料は残されていません。園では、現時点で検証の予定はないが、自治会の意向を聞いて検討したいとしています。 (大島青松園入所者 松本常二さん)
「80年もたっていることを掘り起こさないで、静かに眠らせてもらえたらいい」
「そういう状態の時期が遅すぎた。遅すぎた。もうあまり掘り下げないほうが安心」
Q:本当は嫌でつらかった?
「つらかった。やめたくてもやめさせてくれんかった」
Q:マスコミも触らなかったから問題が長引いた。嫌だと言われても私たちはやらないといけない
「そりゃあ、皆さんがやってくれることはいい。検証してくれることは。解決したらうれしい」
(大島青松園入所者 松本常二さん)
「モルモット代わりにされたと私は思う。恐ろしかったから言いなり、全国的にハンセン病(患者)を試験台に使ったと思う」 太平洋戦争真っただ中、松本常二さん(93)は、10歳の時、古里・愛媛を離れ大島青松園に入所しました。 松本さんは13歳の時「虹波」の臨床試験の被験者になりました。虹波は戦時中、旧陸軍が人体機能の増進を目的に開発を進めていた薬です。 熊本の療養所に残る「虹波」の臨床試験の記録映像です。握力が弱っている入所者、虹波を投与した後には、文字を書いたり、バケツの水を持ち上げたり、懸垂までできるようになっています。 (菊池恵楓園歴史資料館 原田寿真学芸員)
「被験者が虹波によって急速に回復する様子が映されていたが、映像は人為的に作られたもの、フェイクであると指摘された」 虹波の検証を進める菊池恵楓園歴史資料館の学芸員・原田寿真さんは、入所者たちが園長を恐れて、成果を大きく偽った疑いがあるとしています。熊本の療養所には、園長が作成した実験結果の報告書も残されています。軍の機密事項だったため虹波の文字は〇で隠されています。 虹波の投与は、注射の他に膀胱や脊髄腔内などあらゆる方法で少なくとも入所者472人に行われ、実験中9人が死亡したとの記録が残されていました。 (菊池恵楓園歴史資料館 原田寿真学芸員)
「副作用が明確に出ているが、この実験を中止することなく、いっそのこと、原因を徹底的に究明することで、研究を進めたいという医師の決意が見られる、これについては入所者、被験者の立場がまったく考慮されていない、これが戦時中の臨床試験。中心となる課題」
その虹波の実験が、高松市沖の大島青松園の入所者180人に対しても行われていたことが、2024年7月、OHKの取材で分かったのです。 昭和22年(1947年)の皮膚科の専門誌にその記録が残されていました。青松園で存命の被験者は松本さんの他に2人だけ。園では、注射と錠剤の服用によって臨床試験が進められたといいます。 (大島青松園入所者 松本常二さん)
「高熱が出て出血もした。西も東も分からない状態で、10日ほどベッドで意識不明で寝ていた。眉毛が抜けたり・・目が悪くなったのも虹波の影響があったと思う」
「今思うと、つくづくよくあの時は耐えられたなと思う」 当時子供だった松本さん、ハンセン病の症状は落ち着いていましたが、虹波の投与のあと症状は悪化したといいます。被験者の中には激しい副作用を嫌がり、錠剤を舌の裏に隠し、外で吐き出した人もいたそうです。 (大島青松園入所者 松本常二さん)
「私たちに、虹波の反応が出ると「反応がないような薬は効かない、反応があるから効くのだ」と」
「吐き出して玄関に捨てられていた。それを見て、(看護師などが)舌を上げてみなさい、舌に隠さないように、飲み込むまで飲まされて、そういう強制的な恐ろしい時代だった」
(ハンセン病に詳しい歴史学者 藤野豊さん)
「ハンセン病療養所を利用して実験されたという、言ってみれば戦争犯罪でもあるという視点からも見ていかなければならない。満州の731部隊などの発想と結びつく考え方があったのではないか。もっともっと大きな問題として捉えていかなければいけないと考えている」 熊本での虹波の検証作業は今も続けられています。 園に残る資料からは、入所者の遺体から骨格標本が作られていたこと。 亡くなった入所者のうち389人が死後に解剖され、その多くは十分な同意が得られていなかったことも明らかになっています。 松本さんが80年以上過ごした大島青松園には、検証に必要な古いカルテなどの資料は残されていません。園では、現時点で検証の予定はないが、自治会の意向を聞いて検討したいとしています。 (大島青松園入所者 松本常二さん)
「80年もたっていることを掘り起こさないで、静かに眠らせてもらえたらいい」
「そういう状態の時期が遅すぎた。遅すぎた。もうあまり掘り下げないほうが安心」
Q:本当は嫌でつらかった?
「つらかった。やめたくてもやめさせてくれんかった」
Q:マスコミも触らなかったから問題が長引いた。嫌だと言われても私たちはやらないといけない
「そりゃあ、皆さんがやってくれることはいい。検証してくれることは。解決したらうれしい」