2024.11.05
岡山出身者で唯一サッカーW杯に サンフレ・青山敏弘選手引退 成長の軌跡…ゆかりの人語る秘話【岡山】
岡山県出身者として唯一、サッカーW杯に出場したJ1広島の青山敏弘選手が10月に引退を発表しました。涙ながらに地元・岡山への感謝を語った青山選手。栄光と挫折を経験した「希代のパサー」の岡山での成長の軌跡を振り返ります。
豊富な運動量と視野の広さから「希代のパサー」と称された1人の選手が10月21日、今シーズンでの現役引退を発表しました。J1サンフレッチェ広島の青山敏弘選手。38歳。その目を赤くしたのは地元・岡山への思いを聞かれた時でした。
(青山敏弘さん)
「誰も経験できないような、高校生が経験しなくても良いような出来事をプラスに考えて、諦めなくてよかった」
「支えてくれた岡山の人に感謝を述べたい」
2024年1月、津山市から倉敷市へと移転した母校、作陽学園高校の新しいグラウンドに青山選手の姿がありました。この時、既に今シーズンでの引退を決めていました。
(青山敏弘さん・1月取材)
「身の引き締まる思い、とても意味がある練習」
倉敷市は青山選手の生まれ故郷。サッカーを始めたのは小学生の頃で3歳離れた兄の影響もありました。
(兄・青山裕高さん)
「末っ子で、一番力があるのは僕なので、立ち向かってはきますけど勝てないじゃないですか。そういったところで色んな思いしながら、結構甘えん坊なところもあって」
中学時代は地元のクラブチームに所属。攻守に絡む広い視野はこの頃から健在でした。
(ハジャスFC 花田雄二監督 2014年取材)
「観察力と洞察力の優れた選手で、小さい頃からそのプレースタイルでやっていたので、そのまま大きくなってくれたかなという感じ」
その後、名門、作陽高校(現:作陽学園高校)に入学。当時からサッカー部を指導している野村雅之校長はテクニックよりもその強靭なメンタルに青山選手の素質を見出していました。
(作陽学園高校・野村雅之校長)
「(広島で)何回もケガがあり、高校時代にも挫折と言っていいようなエピソードもありました全てをプラスに持っていくメンタリティー、そういう素質があったと思う」
2002年11月、全国高校選手権の岡山県予選、作陽と水島工業が対戦した決勝は1対1で延長へと突入しました。延長前半、当時2年の青山選手が放った強烈なミドルシュートは一度はゴールの中へ。
しかし、誤審によりゴールは取り消されPK戦で作陽は敗れました。その世紀の誤審から10年、当時のキャプテンの呼びかけで両チームのメンバーが再び同じピッチに立ちました。
(当時の作陽キャプテン 櫻内光太さん)
「10年ぶりに再会して当時の話を聞くと、僕らは悲劇のヒーローになっていて彼らは悪者になってしまっていたので、申し訳ない、お前らも悪くないのにと思っていた。」
(当時の水島工業GK 宮本寛さん)
「ちょっとしたわだかまり、あの10年前の出来事を払拭とまでいかないが決着を付けようと、作陽も水工も、僕らの中で決着を付けようか、と。」
緑のユニホームに袖を通した青山選手、既にプロとして活躍していましたが青山選手にとってもこの試合には大きな意味がありました。
(サンフレッチェ広島 青山敏弘選手)
「あの時、嫌いになったサッカーを今、こうやって思い切り楽しめる。これは素晴らしいこと。皆それぞれ人生をまっすぐ歩いてくれているんだなと。」
(サンフレッチェ広島 青山敏弘選手)
「このゲームを本気でやりに来たので頑張りましょう、勝ちましょう。」
あの試合でサッカーに別れを告げ、別の人生を歩んでいる人もいます。それでも、試合が始まると彼らは皆、あの頃と同じくがむしゃらに1つのボールを追いかけました。
《前半終了間際:水島工業が先制》
《後半に作陽が追いつく》
《10年前と同じ流れで進んだ》
10年越しの岡山県大会決勝。両チーム、1ゴールずつを決め1対1の引き分け。青山選手が原点に立ち返ることができた試合でした。
(サンフレッチェ広島 青山敏弘選手)
「あの試合で何か成長した人はたくさんいる。その代表として僕がサッカーをやらせてもらっている気持ちでJリーグでピッチに立っている。あの試合で自分、諦めなくて良かったな、と。きょう皆の顔を見てやり続けて良かったなと思った。10年経って。」
青山選手は2014年ブラジルW杯に出場。岡山県出身でW杯日本代表に選出されるのは初の快挙でした。ケガを繰り返しながらも3回のJ1優勝など、華々しい経歴を送ることができた広島一筋の21年。ピッチを去ることを決断した今もサッカーへの情熱は忘れることはありません。
(青山敏弘さん 引退会見)
「僕が育った岡山。一番下手でした僕が小学校、中学校、高校もですけど、上手い選手ばかりいて、負けたくなかった負けたくない。自分の原点ですね。プロの世界に入っても誰にも負けたくない。負けたくないという思いも負けたくなかったそれを育ててくれたのは岡山だと思っているので本当に岡山の皆さんには感謝している」
12月1日には広島でのホームゲーム後に、青山選手の引退セレモニーが行われる予定です。
豊富な運動量と視野の広さから「希代のパサー」と称された1人の選手が10月21日、今シーズンでの現役引退を発表しました。J1サンフレッチェ広島の青山敏弘選手。38歳。その目を赤くしたのは地元・岡山への思いを聞かれた時でした。
(青山敏弘さん)
「誰も経験できないような、高校生が経験しなくても良いような出来事をプラスに考えて、諦めなくてよかった」
「支えてくれた岡山の人に感謝を述べたい」
2024年1月、津山市から倉敷市へと移転した母校、作陽学園高校の新しいグラウンドに青山選手の姿がありました。この時、既に今シーズンでの引退を決めていました。
(青山敏弘さん・1月取材)
「身の引き締まる思い、とても意味がある練習」
倉敷市は青山選手の生まれ故郷。サッカーを始めたのは小学生の頃で3歳離れた兄の影響もありました。
(兄・青山裕高さん)
「末っ子で、一番力があるのは僕なので、立ち向かってはきますけど勝てないじゃないですか。そういったところで色んな思いしながら、結構甘えん坊なところもあって」
中学時代は地元のクラブチームに所属。攻守に絡む広い視野はこの頃から健在でした。
(ハジャスFC 花田雄二監督 2014年取材)
「観察力と洞察力の優れた選手で、小さい頃からそのプレースタイルでやっていたので、そのまま大きくなってくれたかなという感じ」
その後、名門、作陽高校(現:作陽学園高校)に入学。当時からサッカー部を指導している野村雅之校長はテクニックよりもその強靭なメンタルに青山選手の素質を見出していました。
(作陽学園高校・野村雅之校長)
「(広島で)何回もケガがあり、高校時代にも挫折と言っていいようなエピソードもありました全てをプラスに持っていくメンタリティー、そういう素質があったと思う」
2002年11月、全国高校選手権の岡山県予選、作陽と水島工業が対戦した決勝は1対1で延長へと突入しました。延長前半、当時2年の青山選手が放った強烈なミドルシュートは一度はゴールの中へ。
しかし、誤審によりゴールは取り消されPK戦で作陽は敗れました。その世紀の誤審から10年、当時のキャプテンの呼びかけで両チームのメンバーが再び同じピッチに立ちました。
(当時の作陽キャプテン 櫻内光太さん)
「10年ぶりに再会して当時の話を聞くと、僕らは悲劇のヒーローになっていて彼らは悪者になってしまっていたので、申し訳ない、お前らも悪くないのにと思っていた。」
(当時の水島工業GK 宮本寛さん)
「ちょっとしたわだかまり、あの10年前の出来事を払拭とまでいかないが決着を付けようと、作陽も水工も、僕らの中で決着を付けようか、と。」
緑のユニホームに袖を通した青山選手、既にプロとして活躍していましたが青山選手にとってもこの試合には大きな意味がありました。
(サンフレッチェ広島 青山敏弘選手)
「あの時、嫌いになったサッカーを今、こうやって思い切り楽しめる。これは素晴らしいこと。皆それぞれ人生をまっすぐ歩いてくれているんだなと。」
(サンフレッチェ広島 青山敏弘選手)
「このゲームを本気でやりに来たので頑張りましょう、勝ちましょう。」
あの試合でサッカーに別れを告げ、別の人生を歩んでいる人もいます。それでも、試合が始まると彼らは皆、あの頃と同じくがむしゃらに1つのボールを追いかけました。
《前半終了間際:水島工業が先制》
《後半に作陽が追いつく》
《10年前と同じ流れで進んだ》
10年越しの岡山県大会決勝。両チーム、1ゴールずつを決め1対1の引き分け。青山選手が原点に立ち返ることができた試合でした。
(サンフレッチェ広島 青山敏弘選手)
「あの試合で何か成長した人はたくさんいる。その代表として僕がサッカーをやらせてもらっている気持ちでJリーグでピッチに立っている。あの試合で自分、諦めなくて良かったな、と。きょう皆の顔を見てやり続けて良かったなと思った。10年経って。」
青山選手は2014年ブラジルW杯に出場。岡山県出身でW杯日本代表に選出されるのは初の快挙でした。ケガを繰り返しながらも3回のJ1優勝など、華々しい経歴を送ることができた広島一筋の21年。ピッチを去ることを決断した今もサッカーへの情熱は忘れることはありません。
(青山敏弘さん 引退会見)
「僕が育った岡山。一番下手でした僕が小学校、中学校、高校もですけど、上手い選手ばかりいて、負けたくなかった負けたくない。自分の原点ですね。プロの世界に入っても誰にも負けたくない。負けたくないという思いも負けたくなかったそれを育ててくれたのは岡山だと思っているので本当に岡山の皆さんには感謝している」
12月1日には広島でのホームゲーム後に、青山選手の引退セレモニーが行われる予定です。