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東日本大震災から10年 野球がつないだ被災地との絆

2021.03.11

東日本大震災から10年 野球がつないだ被災地との絆

東日本大震災から10年。岡山県津山市の中学校に、震災を考える授業を続ける教師の男性がいます。男性が教え子たちに伝えてきたのは、被災地でつながった2人の野球少年との絆でした。
1無題.jpg(槙原淳幹さんの授業)
「被災地の人がずっとどれだけ時間が経っても、どれだけ場所が離れていても、自分のことを忘れてほしくないと言っていたのでテーマにしている」

津山市の中学校教師、槙原淳幹さんです。教師になって9年、自らの体験を語る特別な授業を続けています。

(槙原淳幹さんの授業)
「きょうの話は2人の野球少年の話になります」

(槙原淳幹さん)
「うわっ、がれきの山」

【2011年10月】
槙原さんは当時、教師を目指す岡山大学の学生でした。いてもたってもいられず、車で12時間かけて被災地、宮城県・南三陸町へ。ここでの出会いがすべての始まりでした。
2無題.jpg(槙原淳幹さん)
「片手1本、左手1本で拾えるものは少ない。力仕事は出来ないが、気持ちはある」

槙原さんは、生後10カ月の事故で、右手が動きません。
3無題.jpgそれでも小学生の時に野球を始めると、そこからは野球一筋、高校生の時には全国優勝を経験し、障害者野球チームのキャプテンも務めました。

被災地で偶然出会った2人の少年 岡山で思い切り野球をさせてあげたい…

4無題.jpgそんな槙原さんは、被災地で偶然出会った2人の少年に声をかけました。佐々木悠君(当時12歳)と佐藤真生君(当時13歳)です。当時2人は中学1年の野球部員。槙原さんは日が暮れるまで、2人と野球を楽しみました。

(佐々木悠君)
「津波で辛いことがあったんですけど、野球しか楽しみがないので楽しい気持ちでやっていました」
5無題.jpg(槙原淳幹さんの授業)
「運動場の半分くらいを仮設住宅といって、家を流された人の家をグラウンドに作っていた。だから部活、野球を一生懸命できないと先生は聞いた。岡山に呼んであげて、岡山で思いっきり野球させてあげたら、彼らが喜ぶんかなと思って…」
6無題.jpg岡山で思い切り野球をさせてあげたい…。槙原さんの思いがまわりを動かしました。

(募金を呼び掛ける岡山大学の学生)
「宮城県南三陸町の子供たちが岡山にやってきます。募金お願いします」
7無題.jpg思いを知った仲間たちが、地元企業に協力を求めたり、募金活動をしたりして、2人が通う中学校の野球部員20人の招待費用を集めてくれたのです。
そして…。

【2011年12月】
(ホームで迎える岡山大学の学生)

その年の暮れ、佐々木君と佐藤君が岡山にやってきました。
8無題.jpg(槙原淳幹さん)
「久しぶり!」
(佐藤真生君)
「会えてうれしい」
9無題.jpg岡山では、地元の中学生と交流試合をしました。槙原さんは、被災地チームの監督をつとめました。
10無題.jpg(槙原淳幹さん)
「走ること!声!この2は気を抜くな、1点取るぞ」
11無題.jpg被災地は、まだ復興には程遠い状況でした。遠い岡山に子供たちを送り出すことにためらう声もありました。そんな親たちを説得したのは、佐々木君の父・洋志さん。槙原さんが野球に打ち込む姿を子供たちに見せたいと考えたのです。

(佐々木君の父・洋志さん)
「人間的にも見習ってほしいですね。諦めない気持ち」
12無題.jpg被災地の子供たちとの交流は、今でも岡山大学で受け継がれています。

念願の教師になって 偶然見つけた作文を授業で…

【2012年4月】
(槙原淳幹さん)
「新任の槙原と申します。よろしくお願いします」

槙原さんは、念願の教師になりました。
13無題.jpg(槙原淳幹さん)
「構えたまま走るのブサイク。走っていって最後に(グローブ)出す」

生徒たちに野球を教えています。

(槙原淳幹さん)
「僕、野球に育てられた」

【2013年3月】
教師になって2年目の春。

(槙原淳幹さんの授業)
「図書館でたまたまくつろいでいたら、佐々木悠くんの作文が本になっていたのにたまたま出会いまして」
14無題.jpg以来槙原さんは、偶然見つけた佐々木君の作文を授業の中で紹介しています。

(槙原淳幹さん 作文朗読)
「悲しいことがたくさんありましたが、貴重な経験をしたと思っています。僕はこのことを一生忘れてはいけないと思うし、震災と大津波で亡くなった人の分まで生きなければと思います」
15無題.jpg【2019年3月】
槙原さんの結婚式です。
16無題.jpgそこに20歳になった2人の姿がありました。
17無題.jpg(佐藤真生さん・当時20歳)
「野球通じて色んな繋がりができるって素晴らしい」
18無題.jpg(佐々木悠さん・当時20歳)
「自分にとっては、もう一人のお兄ちゃんみたいな」「見習わないといけない人ですし、すごい人」
19無題.jpg震災から10年…。彼らが出会った宮城県南三陸町は復興が進んでいます。
20無題.jpg【2021年3月3日】
(佐藤真生君さんと佐々木悠さんからの動画)
「岡山に招待されて野球ができたことはいい経験」「今でも自分たちは同じチームで野球やっています。これからも野球を楽しんで頑張っていきたい」
21無題.jpg(槙原淳幹さんの授業)
「こういう授業をこれまでもしてきたが、これからもやっていこうと思う、2021年は10年の区切りでニュースとか取り上げるが、一つの区切りで東北の人達にとっては関係ない」
22無題.jpg(生徒)
「自分たちも次の人達に伝える。出来る!」「伝えていけるかではなく、いく!だと思う」「自分にとって大切な授業だったと思う」
23無題.jpg(槙原淳幹さん)
「それぞれに受け止めたことを感じて、忘れちゃいけないという感想が聞けたらいい」
24無題.jpg偶然が導いた被災地との絆…。野球を通じて育まれたそのあたたかいつながりは、10年を経た今も決して色あせることはありません。